分かるの境界

分かるとは、つまり分けるということで、理解とは分類がそのはじまりなのだという。

食べれるものと食べられないものを分け、危険なものと有用なものを分ける。

原始時代にはまさに分かるというのは目の前にあるものを分けるということだったのだろうけれど、時代を経て言葉を使うようになり、抽象概念を扱いはじめ、過去や未来など、時という観念、意識によって捉えられただけの、モノとしては存在しないナニカまでもが理解の対象となっていくにつれ、「分かる」というのは、分類によって分か(け)るという意味には納まらず、非常に曖昧なものになっていったのだと思う。

むしろ現在の概念は明確に分けることができない抽象概念のほうが多い。そしてひとつの抽象概念は複数の概念からできているため、前提となる概念のない人たちには、まさに分け(方)が分からないということになる。

では、その境界、分かると分からないの境界はどこにあり、どう決まるのだろうか。

概念の構造

概念には上位概念と下位概念がある。例えば「酒」という概念の下位には「焼酎」「ウィスキー」などがある。

酒はアルコールを含む飲料を一般化した概念で、製法によって分類され、さらに下ると「魔王」や「マッカラン」のような具体的なモノになる。

つまり一見すると具象概念である酒も、実はモノを一般化しているという意味で抽象概念ということになる。

分かるというプロセスにおいて、具象と抽象という分類はまず最初になされるべきで、特にコンピュータよって展開される世界を扱うためのインターフェースは、具象を模していたとしても抽象なので、あくまで全ては概念として存在しているだけで、ぼくらが行うのはその概念の操作であって、実際のモノを動かすのではない、という認識をする必要がある。

あるいは画像や文字などの、それ自体がすでに抽象的であるものを、さらに抽象の庭であるコンピュータの中で、ただ概念として操作する行為は、原始社会のパラダイムでは、悪魔的か、もしくはただ虚しいだけの行為のように思われるのかもしれない。

一般化と抽象化

モノをただ認識することは理解とは言えない。石がそこにあることを認めても、石を理解したことにはならない。

では理解とは何か? 理解とはおそらく、自分と世界との関係において、その理解される対象が、どういう位置を占めるのかを識ることじゃあなかろうか。

道端に落ちている石は、ある時には蹴つまずいて障碍になるかもしれないし、別の時には硬いものを割る道具として役に立つかもしれない。

ただ、常に同じ石であることは少ないだろうから、まず石一般がもつ性質を知り、そうして石という概念を抽象化していく。

そうしてその抽象化された石という概念にあてはまる具体的なモノとして存在する具体的な石と自分との関係を理解し、石の性質を識ることで、石を理解していき、ある段階で関係が飽和した時に、石を分かったと思うようになる。

分からないの境界

分からないとは、未知である。初めて見るものはわからないし、初めて聞く言葉も分からない。

分かるの境界は、前述のはなしから導けば、未知と自分の関係を探った先にある。それは抽象概念だろうが具象概念だろうが違いはない。概念がどれほど多くの概念を内包していたとしても、その境界までの距離が違うだけで、境界は変わらないはずだ。

そうして同時にそれは、分かるとは非常に個人的なことだということでもある。自分とそれとの関係において、何かを理解する以上、文字のように社会一般で広く扱われるものでさえ、ぼくの文字と、誰かの文字に対する理解は、別の境界を跨いだ先にあったものなのだ。

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