物でなくて環境をデザインする

まずはその世界を理解し、その世界のアーキテクチャの中で存在できる物を仮定し、その物がアーキテクチャの制約を受けながらどのように行動し、物どうしが互いにどのような作用を及ぼし合うのかを考える。これが一般的なデザインプロセスだと言っていい。

世界を理解しなければデザインはできないように。たとえば沸騰したお湯に手を突っ込めば火傷するという事実を無視して温水プールをデザインすれば、利用者はみな大火傷を負ってしまうかもしれない。

物理的な常識は自身の人生によって獲得されるので、ある程度までは学習の必要すらないというのに、仮想的な空間におけるデザインはあらゆるアーキテクチャを無視し、まるで泣き叫ぶ子供の皮を剥ぐようなデザインすら起こりうる。

物の周りに世界があるのではなく、世界の中でたまたま物がそこにある。感覚は環境との作用により生じる状態であり、自我とは社会的な作用により生じる状態でしかない。つまり単体で成立しているものなどはただのひとつもないのだから、物そのものをデザインすることなんてのはどだい無理な話じゃないか。

それが仮想空間だろうと、現実の物理世界であろうと、世界そのものの性質として相互に関係し、作用し、影響し合うということがある以上、アーキテクチャを無視することはできない。

こうなるとまるでそれは限界であり、それを超えるのがデザインだというひとがでてくる。けれどもそれは正しいのと同時に間違っている。アーキテクチャの存在しない世界は世界でなくただの無でしかない。ひとはいずれ光の速度を超えてに宇宙空間を移動する日がくるのかもしれないけれど、しかしそれはあらたなアーキテクチャの発見でしかない。

アーキテクチャを超えた先にはまた別のアーキテクチャがある。そして現在のアーキテクチャを超えるためにはまずそれ自体を知る努力をする必要がある。

コンクリート造の現代的な建築をつくりたいのなら、コルビジェの作品集を眺めるよりまず先にコンクリートの性質を知るべきじゃないだろうか。

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