思考の道具としての抽象言語

絵も文字も意味を伝えるという目的は変わらない。

絵の中でも円グラフや地図等は表現として確立されていて、抽象度の違いはあるけれど、文字に近いレベルの伝達ができる。

けれど例えば模様や写真は、模様を描くひと、写真を撮るひとが明確なコンセプトを持っていなければ、表現としては成立しない。

親が撮った子供の写真には愛があったとしても、年賀状でもらうその写真には、そもそも子供の記録以上の意味はないのだから、何も考える必要はない。あるいはその子が偉人になったり、その家族が何かの事件にまきこまれでもしたら、ある種の文学的な趣はでるものの、それは結果でしかない。

もちろん、ビジュアルデザインをしているひとたちはこういった事は当たり前に行っていることで、色や形、個々のパーツや位置関係には明確な意味がある。

GUI のデザインはひとつの世界をつくるようなものだから、記号と意味の対応付けはその世界の言語になるので、ドキュメントにまとめて参照できるくらいがいい。

けれど、今回はそういうことがいいたいわけじゃない。というか、ビジュアルデザインのはなしじゃない。

言葉というのは、意味が曖昧な方が豊かな表現になる。

よくいわれるように、デザイナに発注する時に「花瓶をつくってください」と頼んではいけない。もしそんなことを言おうものなら、デザイナはいそいそと花瓶をつくってあなたのもとにやってくる。

けれどもし「花を一輪挿すものをつくってください」と依頼すれば、デザイナはその用途に応じて、今まで見た事もないような花を挿す何かをつくってくるかもしれない。

要は明確な意図や意思がある場合は明確な言葉を使うべきだけれど、もしモヤモヤしたものを具象化するプロセスで具体的な言葉を使ってしまうと、その瞬間にそれはその言葉の挿す具体的な物に落ち着いてしまい、それ以上の思考を殺してしまう。

つまり思考は言葉に縛られている。だから語彙の貧弱なひとは思考も貧弱になる。

そうすると芸術家は必ずしも豊かな表現力をもっているわけじゃなく、豊かな思考のための言語をもっているといったほうがいいのかもしれない。

じゃあ例えば、詩人の言語とはどういったものなんだろうか。

詩人は必要に応じて新しい言葉から創りだすので、その言葉は「日本語」とか「英語」とかいう類のものではない。もし既存の自然言語だけを用いて思考するのなら、既存の自然言語の枠は超えられないから、言葉を創るなんていう芸当はとてもできない。

だからそれはきっと、言葉よりは漠然としたものであると同時に、本人にとっては具体的な、イメージに似た言語になるのだと思う。

芸術家というのは、そういった誰にも理解されない独自の言語体系を自分の中にもっているから、自然言語の思考を超えた表現に辿り着く事ができるのかもしれない。だからデザイナも、ひょっとするとそういった言葉を自分の中にもっておくことが大切なのかもしれない。

Don't Think. Feel!. なるほど、ブルース・リーは偉大だ。

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