分けるということについて

ヒトのヒトたる所以、人間と他の動物との決定的な違いというのは、どうも分けるのが好きだということのような。

一般的にヒトとその他の動物の違いとして有名なのは、例えば道具を使う、言葉を話す、環境を能動的に変化させる、などがある。

けれども、ビーバーはダムを作り環境を変化させるし、猿だって道具を使う。どうやら言葉も簡単なものなら理解する動物が居るやら居ないやらということは、しょっちゅう話題になっている気がするし。

あるいは程度の問題で、人間は他の動物に比べて大規模かつ高度にそれを行うからヒトだというのだとしたら、ヒトと動物の境界は、さらにファジーなものだということになる。

いや、しかし、

どうしても分けたいのだ。ヒトはひとであって他の動物とは違う。

万物の霊長にして地球の最高傑作であり、宇宙は我々を産み出すためにつくられたのだと、そう信じたくてたまらないんだ。なにせ、神は自らに似せてヒトをお創りになったというくらいなのだから。

という訳で分けたくて堪らないのが人間だ。ヒトと他の動物は違う。あの国と我が国は違う。本州と九州は違う。隣町のひととわたしたちは違う。ぼくと隣の旦那さんは違う。

しかし分けるというのは、スケールの問題でもある。原子レベルでの違いなど、およそ我々には知覚できないのだから、そんなもの関係ない。

けれど、それでもピーマンは嫌いで、苺は好きなのだ。

分けることによって名前が付けられる。分けることよって社会は成立する。分けることによって科学は発展する。分けることによって分かるのだから、分けなければ、知識も知性も存在しない。

それ以前に己もない。他人と自分の境界もない。

一生かけてひとは一生懸命に周りの全てを分けていく。

そうして、死ぬと、分かれたはずの大地に還る。

ちゃんちゃん。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です