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どうも、ホームの役割の定義というのが、曖昧で、ただスキンの基礎を制作するためにだけあるのなら、もっと事前に定義するべきことを端折った流れをつくってしまうので、いっそホームは要らないなんてことも思ったり。
ある意味、サイトの重心のような役割や、デファクトの構成として、あること自体がその意味なのかもしれないとも、もしくは企業名などで検索した場合にはその入り口として、リアルでのドアとしての役割を果たすものかもとも思ったり。
思うに、なぜホームをつくるのか、という問いに対して応えられないなら、別にホームをつくる必要はない。
先日、あるクライアントに、ホームの絵を見せた時に「表紙ができたようなものだね」といわれて、どうにも、ああ、そうか、と思った。
元来の意味は、やはり索引にあるのだろうけれど、現在の一般的なWebサイトで、ホームが索引の役割を果たしているとも思えない。
新着情報があって、あとは絵がはってあるだけ、といったひどい構成のホームはよくあるにしても。それはたぶん、初期のWebサイトの情報量や構造からいえば、用をなしていたもの考えられるし、誤解をまねかないラベルづけと、浅い構造しかもたないのであれば、あってもなくてもいいものとして、あったほうがいいという結論になる。
索引という意味づけなら、サイトマップのような形で、ただリスト化されたハイパーリンクが並んでいるだけも事足りるわけで、学術系のサイトではそういたものも実際あるし、それは役割が明確になっているという意味では、なんとなくつくられたホームよりは、デザインとして成立しているように思う。
ただ、一般のWebサイトで、そういったリスト構造は、分け方としての工夫がまるでなく、理解の促進には役たたない。
じゃあ一般のWebサイトでのホームを意味とは何だろうか。というのを考えた場合、以下のうなものがあげられる。
まあ最後のやつは別にいいとして、ホームって案外深いな、なんてふと思って。
あとそのサイトの保有者が何をやっているのかを一目でつたえるとかいうのもある。けどそれはグラフィックデザインのはなしじゃね。というかそれ"だけ"なら、テレビ広告とか新聞広告とかのほうが良いように思う。
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- みつけられないものはないのと同じことだ
- アンビエントファインダビリティより
というように、情報のみつけやすさは、ある意味コンテンツよりも重要であるともいえます。
ナビゲーション設計は、ターゲットユーザーのリテラシー、対象情報にたいする知識の深度など、複雑な環境変数をもとに行わなければなりません。
ナビゲーションの善し悪しはサイトの滞在時間、ページビュー、再来訪、コンバージョンといった結果にも重大な影響を及ぼすもので、Webサイトにおけるアーキテクチャのコアのひとつでもあります。
そのため、設計の際には専門知識は必須のものとなり、Webサイトの制作に関わるものにとっての必修科目のひとつです。
そんなわけで邦訳前から欲しかった「デザイニング・ウェブナビゲーション」やっとでた。そして買った。
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サイトを管理するWebアプリケーションをつくってみるでつくってみることにしたので、なんかボチボチつくり中。
やっぱりある程度決めてからつくると、この程度でも効率がいい。
なんかパンフ1枚よこして、これでつくってちょ、みたいなディレクターが極まれにいるけれど、目的と概要のドキュメント化程度なら1時間もかからないだろうに。なんだろうね。デザインを放棄しているのか、それとも本気でデザインをお絵描きと思っているのか。もしくは自分の頭の中を他人が覗けるとでも思っているのか。
なんか少しでも経験を蓄積できるように仕事やってかないと、ただ時間だけが無駄に過ぎてく。時間はまぎれもなくコストですから。
まあ、ただの愚痴ですけど。
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デザインのはなし。
テレビがなくても生きていけるし、ラジオがなくても生きていける。車がなくても、電気がなくても、ガスがなくても生きていける。もちろんWebがなくても生きていける。
とりあえずぼくは、何かのひょうしに現代文明が滅びたら死のうかと思ってるけど、普通には生きていける。
洗濯機は洗濯が自動でできて、それまで洗濯にかかっていたコストを激減させた。ガスも、炊飯器も、冷凍食品も、生活にかかるコストを劇的に下げ、一人暮らしを可能にして、家族制度を崩壊させた。
まあ別にいいんだけど、それはまた別のはなしで。
コストが下がると、それまで当たり前だったものの価値が上がり、以前の当たり前が高級になる。けど、当たり前が当たり前な時代には、コストを下げるもののほうが高級品として扱われる。
それは単純にコスト下げるコストが "当たり前" にかかるコストを上回るからでしかないけれど、この価値の逆転というのは何かすごく馬鹿馬鹿しさを醸し出していて、おもしろい。
「洗濯機って何だろう?」っていうことは普通の人は考えない。けれど、洗濯機つくりに関わる開発者とかは考える。
洗濯機をつくるひとたちがそんなふうに考えてくれるので、ぼくらは何も考えずにただボタンを押して。洗濯が終わるのを待つことができる。
なんか、デザインってそういうもののような気がする。
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北欧の家具デザイナーは10年家具職人としての修行を積み、初めてデザイナーとして認められるらしい。
デザイナーである以上、その工法、素材を知り、自分の手でつくるということができなければ、それはデザインではなく、ただの図面引き、あるいは似顔絵を書くのと同じ仕事になってしまうのだという。
実際にそういった修行がされているのかは知らないけれど、確かに北欧の家具は生活という実際を重視しながら、見目も美しく、丈夫で、その目には人間うつっている感じがする。
そもそもWebの場合は歴史的に新しいサイバースペースをあつかうため、デザインという概念以前にあった文化の歴史と同じだけの長さをもつ家具や建築といったものには到底及ばない。
そもそも、それがなんのためにあるのかすら理解できないまま、実験の繰り返されるWebで、デザインを体系化し、徒弟制度じみた継承をおこなうのは、むしろその成長を阻害する恐れすらあるように思う。
なので、それぞれが正しいと思うことを、それぞれがやって、間違ってたら、「間違ってたよ」って言えば、その失敗や成功によって、継承は行われるし、そういった意味で、インターネットという媒体を扱うのだから、他のデザインに比べ、より多くのことを共有できる。
認知科学や脳科学を利用したデザインアプローチもあるけれど、科学は限定された条件下での実験や証明を行うもので、それをそのままデザイン利用できるものでもなく、だからこそユーザーインターフェースやプロダクトにおいては、モックアップをつくり、テストを繰り返すことで精度を上げていくというプロセスを重視する。
結局急いてもデザインはできないんだろう。サーバのことからHTTPの仕組み、プログラム、データベース、ユーザーインターフェース、ビジュアルデザイン等々 を一通り理解し、ただの表層や、絵ではなくて、人間の生活を向上させるというのがそもそものデザインの目的らしいので、そんなことがちょろっとでもできるようになるには、当然時間もかかるし、そんなことをやれるだけの環境をつくるというのも、あれだなとか思う。
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視覚デザインにおいて、よくこういった感じのことを聞く。
でも、例えば俳句などはどれも5,7,5の音の組合わせで成り立っているけど、その単純な音の構造をもった詩は、創造的で美しい。
逆にもし、俳句にこの音の構造がなければ、美しさは損なわれることになっていたに相違ない。
音楽にしてもロック、演歌、などジャンルによって音の使い方というのが決まっている。詳しくはよく知らんけども、ロックのコードはこれとこれとこれ。演歌ではこの音は決して使わない、など、決まりごとがあって、その決まり事が音をそのジャンルの音楽として感じられるようにしているらしい。
人間はあまり賢い生き物ではないので、制約を作ることで創造力を増すことができるんだ
みたいなことをあるひとが言っていた。
構造は制約であると同時に意味でもある。それがそれであるために構造というのはあって、また構造があるから理解や計算というのが成り立つ。
なにも一貫性を持った構造にするから、全部2カラムの縦100pxにしろということではなくて、一見構造的でないかのように見えて、その実構造が明確にあるという視覚効果も作れる。
それで構造が失われたように見えても、アーキテクチャの明確なものであれば、無意識にスキーマというのはつくられていき、そのアーキテクチャに沿っている限り、どんなふうに見えようともパターンによる理解というのは損なわれない。
一貫性を無視して思いつきでつくれば、パーツは美しくても、全体としては醜くなる。
かといってただひたすら一貫性を保ってもつまらない。
なので一貫性をもったアーキテクチャで、まるで一貫性がないかのように見えるのに、ひどく美しい一貫性をもった設計というが、実はある分野のデザインスキルを決めるのかもしれない。
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問題に取り組む際に、私は美しさについて考慮はしない。どのようにその問題を解決するかだけでに集中している。しかし、もし私が導き出した解決が美しくなければ、それは何か間違っているのだろう。
バックミンスター・フラー
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最近自転車を買い替えて、買う時に自転車屋のにいちゃんに「前輪だけでブレーキかけると、後輪が浮いてすっころぶんで、よろしく」っていわれてたんですけど、
今日、すっころびました。
右手がチョー痛いんですど、なんかポイントがつかめてきてキーボードうつのは比較的平気。
ほいで帰りに水を買ってきたのはいいけれど、力入れると手が痛いんで、右手が使えず左手だけでボトルを開けるのを試みる。普段やらないことなので、そもそもどっちに回すのかすらわからず、混乱してたら、ありました。
ボトルの上に、「まわす」の矢印。
普段は完全に見逃してたただの白いキャップの上にある、その時のぼくにとってはこれ以上ないインタラクションデザイン。
「ああ、この白さをデザインというんだな」と、妙に納得。
誰がデザインして、誰がそのデザインを決定したのかは知らないけれど。ありがとうサントリーの天然水。Webの方は好きなデザインではないけれど、個人的に。
白日本文化の繊細さ・簡潔さを生み出し、支える美意識の原点--白。それは、色であって色を超えたもの。短い文章にこめられた、白の美学。
¥ 1,995
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当たり前ですが、基本的にドキュメントという考え方でできているようです。
画像は日本のWebサイトに比べ、全体的に小さいか、もしくは高さが低く設定されています。モニタ上での一覧性と、読み込み時間の短縮等が考慮されているのでしょうか。
ドキュメントという考え方ではありますが、全体が漫然とならないように、視点の重心や、概念喚起の促進という意味での画像が各ページに少量配置されているなど、文書量などからいっても、1枚1枚丁寧に作られている感じを受けます。
とりあえず、スゲェなってことで。
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ぼくがまだピュアな学生だった頃、講師のあるじいさんに「お前らがやろうとしてるのはデザインじゃない」といわれた。
つまり、コンピュータによるデザインでは、コンピュータの用意した組み合わせを使っているだけで、自分自身でデザインを行っているのではないのだという。
たしかにFireWorksなどではデフォルトでテクスチャやアセットが用意されており、Photoshopでもシェイプやブラシ、グラデなどがオンラインでダウンロードし放題。最近ではアイコンもうなるほど用意され、それらを組み合わせて使っているにしか過ぎない。
けれど視覚要素はあくまでデザインの一部であって全てではなく、効率化というのを考えれば視覚要素は組み合わせにより行い、アーキテクチャをデザインの主とするなんていいわけもたつけれど、それじゃあアーキテクチャが効率化された結果できあがった時間をかけて行われているかというと、そうでもない。
HTMLのフォーム要素なんかはいい例で、全てが事前に定義され、フォームというのはいつも決まった組み合わせによって構成される。
けれど、クエリを送るのならなにもHTMLのフォーム要素のみにたよらなくてもできるわけで、もっと別のインターフェースがたくさんあってもいいんじゃあなかろうか。
デファクト、という意味では限られた構成要素を使用したほうがいいのかもしれない 。けれど、複雑化するWebのインタラクションの中で、それだけを念頭においたインタラクションデザインというのは、じいさんの言っていた「デザインじゃない」という言葉がそのままあてはまらなくもない。
紙とペンだけでデザインできない人間はデザイナーではない。プットされるものは別にして、設計の段階でコンピュータにたよるのはいかんのだと、いろんなひとが言っていて、まあそのとおりだなと思う。
あくまでコンピュータインタラクションデザイナーであって、コンピュータインタラクションオペレーターには、なりたくないな、と思う。
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ユーザビリティの第一人者、ヤコブ・ニールセンの考えをまとめたユーザビリティガイドラインというのを発見しました。
今ではこのヤコブ・ニールセンの考えは比較的一般的になってはいますが、まだまだ目的と手段の逆転したデザインというのもみかけます。
ユーザビリティにせよ、技術にせよ、知識は必ず古くなるため、常にアップデートを心がけたいものです。
ヤコブ・ニールセンの考えをまとめたユーザビリティガイドライン - NPO法人しゃらく
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「あなたのデザインはテキストばかりだね」とよく言われる。
ぼくはWebページはただの電子文書で、その文書は引用したり、あるいは加工したりするリソースとしてしか考えていないので、自然とそうなる。テキストが無い場合は、簡単な見出しやリード文程度を自分で追加して、電子文書としての体裁を整えるよう考える。
電子文書であるから、そこには文書構造というものが必要になる。ただの殴り書きなら構造は不要だけれども、あくまでリソースである以上、計算可能性ということを考えなければならない。
DOMというのがわかり易い例で、InvalidなHTMLでは、DOMの操作はできない(あるいはできても予測不可能な動きになったりする)。例えばリストタグであれば、document.getElementsByTagName("ul")で取得し、内部のliタグを配列として取得すればそれらのlengthで操作が可能になるものが、brで改行されているため、処理が不可能か、あるいはひどくメンドウな手順を踏まされることになったりする。
一般の人には関係ないというひともいるけれど、可能性を抹殺された電子文書の資産価値は低下し、利用者の将来得るかもしれなかった利便、利益を阻害することにもなりかねない。
電子文書のデザインである以上、それは関係性のデザインになる。ページ内の各情報、またはそれらがハイパーリンクによって参照する文書との関係、サイト内での位置づけ、というのを加味し、サイトという一塊の情報としてデザインされ、最後にインターフェースの設計・ビジュアライズの後、美術的要素の付加というのが行われるべきだと、思う。
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Webデザインとは情報とナビゲーションシステムの設計のことで、実はホーム(トップ)ページとはただのインデックス(索引[目次])としての機能を提供することを目的としていたと思う。サイトマップという概念は、広告化し、形骸化したインデックスの機能を補うために考案されたんじゃあなかろうか。
ナビゲーション設計は、デザインされた情報(コンテンツ)へアクセスするためのインターフェースであるため、最もリソースを裂くべきは情報デザインということになる。
ところがホームページがこのバランスを崩壊させてしまっている。多くの会社がホームからデザインを始める。最悪の場合、コンテンツが無いにも関わらず、何故かホームのデザインをまず行い(実際にはそんなことは不可能だけれども、デザイナーの美術スキルによっては、それっぽいものができあがることもなくもないこともない)、その後コンテンツが後づけされるというプロセスを辿る。
この狂ったプロセスをなくすのはとても難しい。
実は、というか至極当然のこととして、Webサイトは、絵を買っているのでなく、提供する情報のあり方の定義、設計を発注している。当然発注側も受注側もそれは理解している。けれども、どうにも形になっていないものは理解が難しい。それが絵になることで、形になっているような錯覚が起きて、何かが出来上がっているような“気持ち” になる。
ならいっそ、ホームなんてなくしてしまえばいい。無い物はつくれない。
...極論だけれども、どのみちインデックスページは要るし。
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一番の違いは、それが利用される環境だと思う。リアルとバーチャルとか、モニタと紙とかそういったレベルではなく。
パンフレット(以下パンフ)を利用する場合、そこは大抵ひとが介在する。パンフを持った営業がいて、そのひとが説明を行い、あくまでパンフは説明の補助的役割を果たすのが目的で、製品については知識をもった営業が説明し、質問に答える。だから補助的という意味で視覚に訴えるビジュアルは非常に重要な役割を持つ。
Webの場合、そこに営業はいない。おそらく(見込)顧客であるユーザーのまわりには専門的知識を持ったひとはいないだろうし、Webは例え検索インターフェースが提供されていようと、自然言語で質問に答えてくれるわけではない。
パンフでは観念的表現や抽象ということにより、営業の言葉を視覚的に補完し、意味(言葉)と視覚(ビジュアル)によって記憶を促進する目的があるんじゃあないだろうか。
一方Webはただの実用のための情報媒体で、興味のない情報に顧客は目もくれない。バナーは過剰にビジュアライズされているだけで『広告』と認識され、平然と無視される。興味を促す営業はおらず、売り込む以前に記憶にすら残らない。
パンフではリリカルな言葉が有用かもしれないけれど、Webは実用主体なので、抽象的な表現は個々の解釈によってゆがめられ、むしろ有害ですらある。変に周りくどい言葉を使うよりは、「ウチはこれに強いでっせ」と、直接的な文章で言い切ってしまったほうが効果的な場合が多い(セールスレターなど)。
なのでコンテンツというのはどんな零細企業でも実はたくさんある。
営業が(見込)顧客に対してしゃべっていることを簡潔に書くだけでも、数十ページは必要だろうし。
検索エンジンによって情報を探すのが一般的、というか現実的にそれ以外の探索が不可能に近いWebの情報量において、抽象、観念的表現は自ら(見込)顧客を追い出しているに等しい。
文字情報の過剰な画像化もしかりで、本来情報として価値のある文字はきちんとテキストとして処理すべきだというのは...今じゃあ常識です。大手は最近変に文字の画像化してないし. (とりあえずCommand(Ctrl)+F で検索できないサイトは使えない)
つまり(見込)顧客が一人で解決しないといけないというのがWebの弱さもである以上、迷わせない、抽象によって無駄な思考をさせない、などは最も重要な要件だと思う。
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- バイオサイバネティクス
- 人間の感覚系が情報にどのように反応し、情報をどのように処理するか、情報が受け手にどのようなインパクトを与えるかを研究する学問。
比較的単純な情報媒体だった今までのWebサイトは、既存の概念モデルを模倣し、リアルとの関連付けを行うことで直感的なコンピューターインターフェースを設計してきた。
けれどもWebアプリケーションが一般化してきて、AjaxやFlexなんかのリッチ系が当たり前に取り入られるようになって、iPhoneやらではタッチパネルやら(デフォルトでは)新しいインターフェースが増えてきたりもしているので、最近じゃあもはや既存の概念モデルの模倣だけでは間に合わなくなっているっぽい。
Appleなんかは世界最高峰のデザインを作ってるひとたちが集まって、デザイン哲学をもったボスがいてっていう理想的な環境なんだろうけれども、その他のぼくみたいな有象無象のデザイナー擬で、しかもデザインに決定権をもっているのが「デザインってかっちょいいやつでしょ」みたいな考え方のボスだったりすると、もはや論理構築にも科学的検証にも時間も金もかけれない。
ならもはや実証済みの科学を取り入れるしかなく、いかにして認知的なアプローチにかっちょよさのスパイスをかけてやるかを考えるしかない。それならかっちょよさげなデザインで、最大公約数的なデザインができあがるので、少なくともユーザーにかかる負担を軽減することはできる。
最近はユーザビリティやアクセシビリティがデフォルトの要件に入ることも増えてはいるけれども、規模の小さい組織なんかではそこにあまりコストをかけることもできないので、そういった意味でも現時点での実証済みの科学を学習しておく必要はあるんじゃあなかろうか。
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クオリティとかいうはなしは、ごちゃごちゃ考えだすと哲学論ぢみてくるので、デザイナーのデザイン論とかはどっかにおいといて、いちユーザーとして結局何を一番を求めているのかっていう視点で、シンプルに定義するのがいいんじゃないかと思った。
そもそもクオリティ、クオリティという言葉はどこでもよく聞く単語だけれども、そのクオリティをどこにおくかって言う事が何の説明もないまま、概念を共通化しないで、むやみやたらと恍惚とした表情で、自分の言葉に自分でうなずきながら語られる事が多いような気がする。
とりあえず議論の対象を定義しないまま議論を始める輩は、他人の時間を無駄に浪費させるだけなので、みんな燃え尽きてしまえばいい。
ほいでユーザー視点のクオリティ。
結局Webサイトのユーザーの目的は情報を探すことにある。そしてその情報を活用するためにサイトに訪れる。これが大多数のユーザーにあてはまることで、たぶんあんまり難しく考えることはないと思う。
製品のクオリティは、目的をどこまで達成できるか、これに尽きると思う。
ならWebサイトのクオリティってのは、情報を見つけ易くすること、見つけた情報を活用するための手段がちゃんと用意されてるか、になる。
派手な演出や美麗なビジュアルも大切だろうけど、目的を達成できないのであれば、それは製品としての価値はないんじゃあなかろうか。
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ソシオメディアの篠原 稔和さん監修の『DESIGN IT!』という雑誌です。
内容はUI設計、情報アーキテクチャ、ユーザビリティ、インタラクションデザインなどの専門的な内容となっています。
Web系の雑誌はけっこういっぱいあるけれど、学生が読むような内容のものや、企業のWeb担当者向けのものが多かったので、プロ向けに書かれた本格的な内容のものは、希少です。
とりあえずケンタに2時間居座って読み上げました。
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ProcesssingとはMITのBenFryとCaseyReasによってつくられた電子メディアを素材とし、視覚デザインを行うためのプログラミング言語と開発環境です。このソフトウェアは視覚的な表現を視野に入れつつ基礎的なプログラミングを教育するためにつくられ、またソフトウェアのスケッチブックとして提供されています。
なんか前にProcessing.jsというのが公開された時に「ほいでこれで何するねん」みたいなことになりました。
「いやー、なにするんでしょうね、アートじゃないですかー」とか適当に答えてみたけど、アーティストではないので関係ないじゃん。とかあれでした。
でもプログラムによるアーティスティックなビジュアライズというのは、ぼくらWeb屋にしてみればインフォメーショングラフィックスの可能性がひろがるということじゃあなかろうか、とかふと思いました。
Flashが目指すところはきっとインタラクティブで、リッチなビジュアルをもった“インターフェース”だろうから、そいつとはまた別のアプローチでの情報の視覚化という意味でのプロセシングという位置づけとかしてみろうかと思う。
例えばリアルでは、位置というのは意味化ができない。トンネルの入り口は逆から行けば出口だし、出口はまた入り口にもなる。制限を設けることで意味の逆転を防ぐ事も不可能ではないけれど、“入り口”という看板のドアから出てくることは容易い。
ところがサイバースペースでは入り口を永遠に入り口にする事が可能になる。出口に辿り着いた瞬間に入り口に戻す。出口の先が入り口という時空間をねじ曲げるということが至極簡単にできるので、位置の意味化というのが可能になる。
もちろん、リアルにおいても縦方向の移動というのが、高度、深度、というふうに意味付けられ、地点というのが緯度経度によって表される。これは地球を疑似的に情報化することで、コミュニケーションの齟齬を防ぐためにあるのだろうけれど、普通の人にはあまり関係ない。
犬の銅像の前で待ち合わせれば犬の銅像は動かない可能性が高いけれど、それは位置を情報として意味化するのとはまた違う。ただその場所が動く確率が非常に低いから、そこで待ち合わせれば結構高い確率で出会える、ということに過ぎない。
位置の意味化というのは例えば人口の総数を位置で表現するといったようなことで、ある限られたバーチャル空間の中での深度が、人口の割合に比例するとかそういったことだと。
1,000枚の書類を見るより、インフォメーショングラフックスを見る方が情報の取得コストが低いことは誰にも明白なので、そのへんでWebっぽいなとかも思う。
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いくつかコンテンツがありますが、それぞれを独立したものとしてつくっているので、横の繋がりはほぼないです、
このブログだけは個々のコンテンツの更新情報を記録するためにも使用していますが、目的はそこにはないので、あくまで記録の一部でしかありません。
なので、各コンテンツの入り口としてのホーム、という本来の目的に適したデザインにしてみました。
これでデザインしてるのかよ、的なことを思う場合もあるでしょうが、ぼくにとってのデザインとはこういうものです。
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そもそもWebデザインってのはナンなんだろうか?
プロからすると意味不明なこの言葉について、ほっこりほっこり考える。
Webの目的として考えられるのは集合知、情報共有、自己表現(組織も含む)などであるから、それらのソリューションの一端を担うのが仕事だといえる。
中でも商業におけるWebソリューションにおいて重要な、企業の行う表現というのは、既存の広告という概念ではなく、正しく“表現”という概念でよらえられるべきで、無価値なFlashを、動くという意味不明な理由だけで“ホーム”'(トップ)ページに使用するというは、これはWebサイトをただの看板広告くらいにしか考えておらず、それでは本来得られるであろう利益を喪失してしまいかねない。
なにもFlashが悪いというのではなく、動くということは、逆に言えば動くのを待つ必要があるということでもある。だとしたら、目的を持って訪れる大半の(見込み)顧客に対するアプローチとしては、むしろ時間という概念をもたない通常の画像やテキストのほうが、より確実な方法ではないだろうか。いったい30秒以上“ホーム”'(トップ)ページに滞在するユーザーが何%いるのか、解析してみるとどういう結果がでるのか。情報へのナビゲーションである“ホーム”'(トップ)ページで30秒以上滞在するというのは、むしろナビゲーション設計に致命的な欠陥があるとも考えられる。
では表現と広告の違いは何か?
広告とは不特定多数にたいし、より短時間に、必要最小限の情報を告知するということだとして、表現とは、組織のあり方、商品、サービス、CSRなど、をより具体的に伝えるということだと考えられる。
つまり最も重視するべきは、情報そのもの、そしてその情報にどういったかたちでナビゲートするのか、ということになる。
信用のおけないWeb屋ほど、情報構造、表現手法をないがしろにし、絵でごまかそうとする。
ではWebの視覚デザインの価値はどこにあるのか? それは情報にたいする適切なナビゲーションと、情報アーキテクチャに基づく視覚的構造化にある。
ひとは自らの利益にたいしてのみ金銭を支払うのだから、その利益を以て商品とするべきだというのは、他の業界では当然すぎるくらい当然のことなのに。
生み出された価値にたいする報酬として金銭があり、その金銭がまた新たな価値を産む、というが経済活動のあるべき姿だとしたら、Webデザインのスコープとは、その他のあまねく職業に違わず、価値の創出だといえる。
それにしても最近涼しくなりました。もうすぐ秋ですね。
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なんかWebばっかやってると、Webの中だけで考えてしまいがちになる。
情報デザインに関しても、Webのもんだと思いがちだったけど、地図をつくったりだとか、建築とかプロダクトとか紙とか、いろんな分野で情報デザインってのはあるんだなぁ、とかふと気づかされた。
でも、いわゆる"情報"って、結局はコミュニケーションにおける概念のやりとりの中で発生するメタ概念的なものだとか思うので、じゃあ"情報"って人間の社会活動全部だから、それをデザインするってことは社会活動そのものをデザインするってことなる。
たとえばWebの中だけで"情報デザイン"っていったら、それはWeb屋には理解できても、社会的な意味で情報デザインっていっちゃうと、もはや概念という概念を超えて、その単語自体がコミュニケーションを阻害してしまうことになるかもしれない。
だから、情報+デザイン = ; という式を書くと、例え情報とデザインが定義されていても、かえってくる値はundefinedのような気がする。
なんか情報デザインってカテゴライズとかラベリングとかスキーマとかオントロジとかっていう考え方をしてたので、今回のはなしを聞いてよくわからなくなった。
いろんなひとのはなしは聞くもんだな、と思た。
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i love Typographyというサイトに15 Great Examples of Web Typographyのいうのが紹介されていました。
讀み易い文字が美しいのか、美しい文字が読み易いのか。なんか英字のサイトはかっこいいとかいいますが、まあそんなん言い訳です。かなや漢字には単純なアルファベットにはない美しさがあるので、その辺の特性を理解しつつ設計すれば、アルファベットでなくてもかっこいいタイポグラフィはできると思います。
最近Winでもfont-familyにヒラギノ角ゴシック体を指定したりして、アンチエイリアスのかかったサイトが目立ってきました。ヒラギノ角ゴシック体がどのくらいインストールされてるのかは知りませんが、font-family:MS-ゴシックはもう古いっぽいです。
システムフォントベースでも美しさを損なわないWebタイポグラフィができるデザイナーが、Webでの見せ方に精通しているという意味で、やっぱりプロの"Webデザイナー"だと思います。もう無闇に画像にたよるのはやめてください。
"画像、かっこわるい"、とかいってみたりする。
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昨日はCSS Naked Dayという日だったらしいです。
CSS Naked Dayとは、CSSをコメントアウトして、HTMLの構造を公にすることで、POSH(Plain Old Semantic HTML)を広めるという意味があるそうです。
やはり美しいサイトというのは、ビジュアルのみならず、全体構造から、ページ毎の情報構造までが緻密に設計されたサイトであると思います。
そもそもデザインとは、計画・設計という意味らしいので、計画も設計もないWebサイトは、デザインされていない、ともいえるんじゃないでしょうか。
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多くの仕事は既に概念化されていて、自らの仕事の必要性の証明を求められずに仕事は進められて行く。営業やマーケッターも、その商品がどういったかたちで企業や消費者のベネフィトにつながるのかを証明する必要はあるが、自らが行っている仕事そのものについての証明は求められない。
ただ、自分の仕事の必要性を求められる職業が、思いつく限りではふたつある。それがクリエーターとスペシャリストだ。クリエイティブは無から有をつくりだす(神の仕事を行う)のではく、無形のものにかたちを与えるのが仕事だとぼくは考えていて、多くのひとはその価値を理解できない。ひとは利益にならないことのために行動を起こさないし。企業であればなおさらそうだ。
なぜこのクリエイティブが必要(どういった利益を産むのか)なのか、それを経営者に理解させることができない限り、自らが行いたいクリエイティブを行うことは出来ないし、ただひたするら他人の概念の中でのクリエイティブ(?)をやらされているだけになってしまう。
既に概念化されたスペシャリズムであればそれを証明する必要はないと思うかもしれないが、実はスペシャリズムというのは同じスペシャリズムでも時代によって変化していくので、何故この変化が必要なのかを常に証明できなければ、スペシャリストはスペシャリストではなくなり、ただの丁稚に成り下がる。
そこで証明のために必要なものが専門分野以外の知識になってくる。あるいは自分のスペシャリズムやクリエイティブのよき理解者だと思う。しかしよき理解者であっても時代の変化による変質まで理解してくれるとは限らないので、やはり自分自身でそれは証明していかなければならない。
自分の好きなことを続けていくためには、自分のしたい仕事をするためには,専門分野以外の専門知識も求められて、それはあらゆる職業にいえる。
すごく面倒臭いけれど、そんな者に、わたしはなりたい。
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便利。あれね。ちょっとした時とか、わざわざmac立ち上げるのとか面倒くさいし。
あと、スゲー思ったのがグローバルナビとかどーでもいい。やっぱ導線設計はコンテンツ部分でしっかりやらないとPVも滞在時間も伸びんじゃないか。
次にユーザーが何を求めるのか、とかこの情報欲しいんならこれもどう? みたいな感じでいつの間にかコンバージョンしてた、っていうのが最強なんだろうね、きっと。
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なにやらソフトバンクがappleと共同でiTunes Music Storeでダウンロードした楽曲を再生できる携帯電話を発売するらしい。
いやあやっぱりappleが関わってくるっていうことはデザイン面でも期待大。
デザインケータイっていうとauが強いけど、ソフトバンクはデザインでもリードしようとしてるのかな。
まあ機体のデザインにappleが関わってくるのかは知らないけど。