カッティング・エッジ

究極のダンスは踊らないことなのだという。舞台に立ったダンサーに観客は息を飲み、期待し、そうして全てが終わった後に、ようやく全てが始まっていたことをしる。

研ぎ澄まされたものからは余計なものが消えていく。全てを知ったマスターは、何が必要なのかを知っている、だから、その必要なもの以外を全て削ぎ落とし、残った僅かなものだけで全てを完成させてしまう。

だとしたら究極の絵画は一本の黒い線だ。線には無限の選択肢がある。キャンバスの大きさ、素材、位置、長さ、太さ、角度、濃さ。それぞれたった 10 の選択肢しかなくても、組み合わせは 10 の 7 乗になる。もちろん実際はもっと多くの選択肢があるのだから、その途方もない可能性の中から唯ひとつの選択、何の不足もない完全な線としてひかれたそれは、きっと見るだけで人生を変えてしまうに相違ない。

では究極の歌はどんなものだろう。恐怖は正に叫び声、歓喜は笑い声、哀しみは泣き声だろうか。歌が仮に感情のみを表現するものだとしても、それではきっと貧弱過ぎる。基本欲求と原始的な感情を表現することが究極の歌だというのなら、ディーバも乳飲み子で事足りる。

究極のインターフェースはインターフェースのなくなる事で、モーダルよりもモードレス、マウスよりもダイレクトなタッチパネルらしい。拡張現実も現実と区別がつかなくなれば、それはもう立派な現実だし、ビットとアトムも概念で生きる人間にとってはほんとうは何の区別もない。けれどもそんな恐ろしいことはない。

リアルとバーチャルに境がないのなら、生も死も意味がなくなり、命を持たない人間が、肉体の中で生きる人間と同じように活動し、作用し始める。けれど彼らには肉体がないのだから、生き物ではないし、死人でもない。だからそんな恐ろしいことにならないためにも、究極のインターフェースとは、やはりそれはそれで境界としてあり続けなければいけないのじゃないだろうか。

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