線が点の連続なのか、ある地点からある方向へのベクトルなのか、コンセプトによって線の意味は変わるにしても、線の形は変わらない。細くて長いその何かは、境界を作って世界の分断したり、Thing を繋いだりする。

ペンを掴んで線を引く。この線を"引く"というのは、縦の線は躰の外側から内側へ、横の線は躰の内側から外側へと、人間の解剖学的な筋肉の構造がそのような動きをし易いようにできているからそういう名前なのだという。

よしんば線を押すと、薄い紙は気をつけていないと破けてしまうかもしれない。これは"引く"というのは筋肉を自然な形に戻すのに対し、"押す"という動きが破壊的な側面を持っており、筋肉を不自然な形へ変化をさせるためだろう。

自然界には線は存在しないという。もちろん厳密な意味での線はコンセプトとしか存在し得ないにしても、絵画的に線はそこに引かれ、境界と連続を作り出している。

では仮に線というのが人間によってのみつくることのできる特殊なものだとして、それは人間のアーキテクチャに依存すると考えてみよう。つまり、線は人間の躰の構造に依存し、人間の躰の動きを超えることはできないと仮定してみる。

そうするとどうだろう、未知の線の可能性は一気に広がる。

それにしても現在はコンピュータグラフィックスがあるからそんなものは一足飛びに越えられると思うかもしれないけれど、そうは問屋が卸さない。線を認識するのは所詮人間で、全く未知の線に出会ったとしても、それは未知であるがゆえに、大多数のひとはそれが線だと気づかないはずだ。

けれど中には洗練された感性の持ち主もいて、ある日それが線だと気付いてしまう。そうはいうものの、凡庸な感性しか持ち得ない多くのひとは、やはり簡単にはそれを線だとは認めない。肉体の限界を越えた線など、線というコンセプトの外にあるのだ。

時代は引かれた線との間に乖離のあるマウスから、ダイレクトなタッチインタフェースへと移り、いずれコンピュータグラフィックスをつかったデザインも、いびつなマウスの軌跡から、再び指先の軌跡へとその形を取り戻すかもしれない。新しいインターフェースは新しい軌跡を生み出し続けてきた。再び指先で描かれるその線は、一体どんな形をしているのだろう。