昔はこうしてネットから情報を引っ張ってくることを「調べる」といっていた。...幼少の頃から電子葉に慣れ親しんだ世代は、ネットで調べられることは全て「知っている」という。ネットで調べられないことを「知らない」という。大人はそんな子供の態度が生意気だと感じ、子供は大人の話は回りくどいという。

上記はネットワークと通信して情報を取得し、脳外部からの膨大な情報の処理を行う人口の脳葉、電子葉の義務化された社会を描いた SF 小説 know 野崎 まど (著) の一節から引用した。

情報化社会( 情報が諸資源と同等の価値を有し、それらを中心として機能する社会のこと)と言われる現在では、ビットの海が莫大な利益を産みだし「情報」という概念は、その定義の不明確なまま、意味を刻一刻と変化させ続けている。

最近は大人も子供も知らないことを見つけるとすぐに検索をする(肝心なことは調べようとはしないのだけれど)。概念はヒトとモノの関わり方によって変わるのだから、ネットワークを介していても、未来でなく、現在であってもそれが記憶と同等という認識になるのも不自然なことではないのかもしれない。

ところがこの常時オンライン状態は良いことばかりではなく、そのせいで個性が消失し始めているような気がする。

グローバル経済とマスメディアに受動的になれば文化が均質化され、社会が無個性になるように、同じ情報が共有されることによって、知るというプロセスそのものも均質化されはじめている。

本来「シル」プロセスはヒトの数だけあり、そのプロセスによって対象の認識が変わり、新たな発見や誤解が生まれ、その変異によって情報は進化していたのだろうけれど、誰もが Google や Yahoo の上位の結果で「シル」のなら、それは知識の無個性化の始まりだと言ってもいいのではないだろうか。

パワートゥーザピーポーのはずの Web が同時に全体主義を自然に推し進めるような状態になっていると言えなくもない。

そうなってくるとヒトの知性が形成されるプロセスの大部分が均質化された社会に生まれた子供は、主体的に物事を判断できなくなるということも考えられる。

常に検索が可能で、何かしらの(不確かな)正解を瞬時に得られる社会に育てられた大人は、社会的証明を求めて検索をするというのがデフォルトになっているため、検索できない環境で判断を下すことが困難になってくるのではないか。

これは現在の大人も一部依存が始まっており、食べログの評価を異常に信頼していたり、検索結果に否定的な評価の上がっているモノに関しては、自分で判断する前段階において、すでに否定的な態度をとるヒトも中にはいる。

これが全体的な流れだとしたら、ひょっとすると近代的な「個人」という概念は非人間的なものだったとされる時代がくるのかもしれないな、なんて思った。