今では信じられない事だけれど、少し前までは職業の自由なんていう概念自体がなかったらしい。

ひとびとは所属する社会から与えられた役割(ロール)としての職業を営み、社会によって教育された職能を還元することで共同体への帰属を保証された。

日本でも明治維新後、身分制が廃止されたものの、例えば義務教育を終えた少年は丁稚として適当な所へ出されたり、集団就職で十把一絡げに職業を与えられたりと、自分が何かになりたいからその職業を選ぶというのは珍しいことだったのではないかと思う。

どうもそれだけ聞くとひどい時代のようだけれど、果たしてほんとうにそうなのだろうかという疑問も抱く。

時代として飢えや貧困がデフォルトであったので、なにかとんでもない異世界のようにも思えるけれど、それは現在のほうが異常事態だとして考えると、いろいろと見方も変わってくる。

中学を出て有無を言わさず寿司屋に丁稚にだされ、他にやりようもないから寿司屋になったというある職人がいて、そのひとは今ではミシュランで星を付けられるほどの店を持っている。

そのひとがインタビューに応えていて「あなたは寿司屋に向いていたのですね」というような事を言われてこういうような事をこたえていた。

「自分にはそもそも何かを選択するなんて自由はなかった。今のひとはすぐに向いていないからといって辞めるが、仕事には向き不向きなんてない。ただ自分がその仕事と向き合うか、向き合わないかしかない」

成る程。さすが一流と呼ばれるようなひとはそこいらのおっさんとは違うことを言う。

前置きが長くなったけれど、過去には天才的な仕事をした沢山のひとたちがいる。

彼らももちろん選択的にその仕事を選んだというのは稀だったに相違ない。

中には自分の仕事が厭で厭でたまらず、家業なんて継がずにロックスターになりたいひとたちだって沢山いたはずだ。

天才と呼ばれるひとたちがみんな本物の天才であった訳でもなかろうし、自分の仕事が厭だったにも拘らず歴史的な結果をだしてしまったひとだっていると思う。

結局現代のぼくなんかと何が違うかというと、後がないということなんじゃなろうかと思う。これがだめならあれがある。次が駄目ならそのまた次。

例えばその社会の支配者にこれをやれと命令される。出来なければ殺される。だけならまだいい。それだけでなく、家族親族一族郎党皆殺しにされる。なんてシナリオも暴君時代にはきっとあったのだと思う。

そうなると出来ないなんて言えないし、出来ませんでしたなんてとても言えない。自分が死ねば片がつくというわけでもない。共産国家の兵器開発なんてきっとそうだったに違いなくて、ヒトラーに原子爆弾をつくれと言われたチームは毎日気分が悪くて耐えられなかったことだろう。

まあしかし結果自由主義が勝利したということは、そういうやり方では自発的なクリエイティビティが喚起できないということの証明でもあるのだろうけれど。

それで結局何かこれといって明確な主張があるわけでもなく、ただ思ったので書いてみた。