スクリーンサイズ

あらゆる時代のあらゆるひとにとって、世界の中心はまぎれも無く自分自身でしかない。野球選手は野球から人生の多くを学び、デザイナはデザインから人生を学ぶ。だから野球選手はみんなが野球をやれば世界が平和になると信じているのだろうし、デザイナは全てのひとがデザイン思考をすれば世界は幸福になると思っている。

けれどそんなことは全く嘘だ。茶道からでも宗教からでも、人事や事務処理からでも、野球やデザインで学ぶのと同じことが学べる。

空間においてもまた、中心は常に自分自身になる。その証拠に、部屋の中央に居れば部屋は広くも感じるし、逆に部屋の隅に追いやられれば、まるで空間が縮んでしまったかのように狭く感じる。その部屋の物理的な大きさはなにひとつ変わらないのに、ひとは主観によってあらゆるものを歪めてしまう。

インフォメーションアーキテクチャ空間を設計するのなら、ひとにとっての広さや狭さ、距離というのを考える必要がある。

主観による広さの違い

部屋の隅に追いやられれば身動きがとりづらくなるように、スクリーンの端にあるものは扱いづらい。

あるひとにとっての十分な広さの空間というのは、そのひとが育った文化や時代に依存する。アメリカ人にとっては狭苦しい部屋も、日本人にとっては広すぎる家かもしれない。

けれどデザイナにとって幸いな事に巨人族は絶滅したようなので、ひとの身体の大きさはある程度予想できる範囲におさまっている。

大人と子供ではある程度違いがあるにしても、ユニバーサルデザインというコンセプトを取り入れることができるのなら、その物理法則のみならず、認知レベルの差でさえ、むしろ追い風に変える事が出来る。

スクリーンを最大化する

大きなものは大きいし、小さなものは小さい。

なにを当たり前の事をと思うかもしれないけれど、大きさや小ささというのは全て用途に依存している。例えば 1 メートルのプリンは大き過ぎて食べきる事はできないけれど、映画館のスクリーンが 2 メートルなら、それはむしろ小さいと感じる。

デバイスのスクリーンの大きさというのももちろん用途によって決まっている。ポケットに入れるスマートフォンと机の上に置いて使うデスクトップでは明らかに大きさが違う。多人数で共有するためのタッチスクリーンなら 2 メートルあっても狭いと感じるのかもしれない。

ではスマートフォンのモニタは小さいのだろうか。

ぼくはスマートフォンを使っていて"小さい"と思ったことはない。ただ、"狭い"と感じることはある。

けれども全てのデザインを狭いと感じるわけじゃない。よくできたデザインは十分な広さを感じさせてくれるし、一方で画面の要素が極端に少ない場合でも狭いと感じることもある。

その差のひとつの原因は、用途に応じた適切な大きさが設計されているか否かに依るように思う。

それは単にタッチするボタンの大きさの問題だけでなく、全ての要素の全ての大きさが目的的に設計されているのかの問題なのだと思う。

大きさとは最初に決めたひとつめで既にそれ以降の全てが決まっている。

コルビジェは人体の寸法からモジュールという基準寸法をつくった。それに比べると、狭い GUI をつくるデザイナの大きさの基準はひどく恣意的なものになっているのだと思う。

大きくすればいいというものでもないし、小さくすればいいというものでもない。人間の手や声や視力聴力、むしろ建築物の大きさを決定するよりも GUI では多次元での設計が必要になってくる。

画面上のユーザインターフェース空間

現在スクリーンに映っているユーザインターフェースは今体感している広さ(狭さ)と直結している。

ならそれはある意味で最も大切な空間だといえる。では適切な大きさとはどうやって考え、決定すればいいのだろう。次はそれを掘り下げてみる

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