スクリーンサイズに応じた適切な大きさとはどうやって決めるべきなのだろう。

考える事は山のようにある。

スクリーンの物理的な大きさはどのくらいだろう。ポインティングデバイスはマウスだろうか、リモコンだろうかそれとも指だろうか。

指は何本使うのだろう、手のひらで操作する事は可能だろうか。複数人で操作する場合、その人数は最大で何人になるのだろう。あるいは声で操作するのなら、また違った考え方が必要になってくる。

大雑把に考えて人間の大きさが変わらなくても、環境は変わる。周りは五月蝿くて、とても画面に集中できないかもしれない。もしも静かな環境でも、誰かと話しながら片手間に操作しているかもしれない。ひょっとしたらそれのためだけに人生の貴重な時間を確保して、ただひたすら画面に見入ってるのかもしれない。

精緻な操作を行うのなら細かい操作ができるように精密な操作に必要な大きさがいるし、片手間の作業なら大雑把な操作でうまくいくようにしないと困る。

答えがないといってしまえば元も子もないし、かといってこれだというものを一般化したのではつまらない。

なので、そもそも大きさとはどうあるべきなのかを考えてみる。

先ずは分かり易くするために、話を大きくしてみる。

仮に一万二千ピクセル十メートルの幅のスクリーンがあるとする。高さは七メートルくらい。

そこにはどんな距離があるだろう。

  • スクリーンとユーザの距離
  • スクリーンの距離(大きさ)
  • スクリーンの中に配置された要素同士の距離
  • ユーザが操作してい対象から次に操作する予定の要素までの距離
  • スクリーン全体の要素の塊同士の距離

結論から先に言うと、個々の距離にあまり意味はない。

大切なのは注視、もしくは操作している対象の上位の距離や関係をどのように認識させるべきなのかということじゃあなかろうか。

なぜならボタンはボタン単体では意味はない。ボタンを押すのには目的がある。例えば車のキーを指してボタンを押してエンジンをかける。部屋を明るくするためにボタンを押して電気を点けるなど。

ボタンにどれほど凝ったところで、押しても何も起こらないのならただの出っ張りと変わらない。

何かが起こっても、何が起こったのか分からない、もしくは何が起こるのか分からないボタンも同じようなものでしかない。

大事なのは物理的な距離であると同時に、概念としての関係の距離になる。

スクリーンの大きさはユーザとの距離に比例するだろうし、操作対象の距離から次の操作対象の距離もその順序に比例する。

距離とは関係そものだから、結果の表現は操作した要素のすぐそばで起こるべきだ。

ボタンを押して地球で核戦争が勃発しても、イスカンダルに向かって宇宙を航行しているのなら、地球に帰ってくるまでは他人事ですらない。ひょっとしたら超光速移動で浦島太郎にでもなれば、帰った頃には放射能は無害なレベルにまで低下していて、核戦争の痕跡すら残っていないかもしれない。

逆に概念上の関係が大きさによって表現され、インタラクションの結果がアクションのすぐそばで起これば、そこにはリアリティが産まれる。

ならスクリーンのサイズが十メートルだろうと十センチだろうと、リアリティを追求すればいい。

十メートルのスクリーンに映った六メートルのオブジェクトを小指一本で操作することにリアリティはあるんだろうか。

十センチのスクリーンに映った十センチのボタンを指一本で押すのは自然なんだろうか。

つまり適切な大きさとはきっと、どこかのガイドラインに載っているような Pixel でいくつというのではなく、限りなくリアリティのある大きさの事なのだと思う。

上位概念の空間

空間の認識にはさらに広い空間を必要とする。

今いる部屋は町の一部で、町は県の一部で、県は国の一部で、国は地球の一部で、地球は宇宙の一部で。

それにしてもだいたい県くらいからひどく漠然としたものになってくる。町にしても、せいぜいその一部を頭に思い描くだけで、町全体を常に把握しながら生きているひとはきっと稀だろう。

けれどもし、世界が六畳一間なら、そこは空間と呼ぶには心もとないものになる。

小さいものの理解は、より大きいものを理解することで強固なものになっていく。

人間はどうやら絶対的な理解や判断ができないようなので、何か基準を設けたり、過去の経験と比較したりと、相対的な価値による判断しかできない。無という概念だって、有がなければ成立しないくらいだ。

じゃあ今目の前のスクリーンに映っていない Web サイト全体を漠然と理解できる構造であれば、目の前のスクリーンに映った情報はより有用なものになる。じゃあその関係はどう表現されるべきなのだろう