コンテンツのマネジメント

そんなわけで、確かなものなど確かに無い。と言い切ってみた。

これは簡単に言うと意味は認識する主体によって変化するし、その主体も時間や置かれた文脈に拠って解釈を変更するので、意味とは常にふらふらしているというような事をいいたかった。

仏教的に言えば諸行無常、色即是空。短くなって便利だ。

ちなみに虚無と無常は全く違う。例えば人類が滅んでも宇宙が消えても、それはただ無いという状態になるだけで、その無いという状態もまた無常なので、いずれなにかの拍子に在るようになるかもしれないし、在ると無いとは全く別の状態に変化するのかもしれないということだ。だから仏教には永劫はあっても永遠という概念はない。今でこそ否定的な印象もあるけれど、飢餓や病気、災害リスクが高い時代には、辛いことも一生続く訳じゃないという肯定的な解釈も成り立つ。

まあどうでもいいのだけれど。

認識主体(ターゲット)を明らかにしてその主体に応じた意味を見いだして概念を最適化するというのは普通のデザインプロセスなのでさておき、コンテンツマネジメントについてもっと考えてみる。

マネジメントされるコンテンツは最終的には八方美人にならないといけないはずだ。しかもそれでいて確固たる自分を持っていて欲しい。

ここでいう八方美人さとはあれだ。知的で無邪気で機知に富んだ会話をし、男をたてるが姉御肌、昼と夜とは別の顔で、愛され上手で愛し上手。家では優しい母親で、一歩外に出ればみんなの憧れ。ある時にはまるで処女のようで、時には薔薇の似合う娼婦のように、というような、自己矛盾した生き物であって欲しいということだ。

つまり対話する人間に応じて変わる。けれどもそれは、ただみんなにいい顔をしてるわけじゃない。それはその人にとって特別ないい顔でないと困る。最小公約数ではなくて、そのひとのためだけの素数だ。

まあ素数という表現が的確なのかは分からないけれど、最小公約数なんて言葉を使ったので、同じ数の概念で特別さを表したかった。

この辺は Google がプライバシーポリシーの統合で個人の趣向をまるっと分析してくるらしいので、これから徐々に可能性として見えてくるのかもしれない。

でもよく考えたら最終的なプレゼンテーションはコンテンツマネジメントというよりはコンテンツの表現のはなしなので、あんまり関係ない気もする。

コンテンツのマネジメントに、コンテンツをつくることも含まれるのかは、文脈と規模に依存するのだろうけれど、理想的にはつくるのではなく、管理する仕組みの洗練と運用になるんだろう。

じゃあ次はインフォメーションアーキテクチャについて考えてみる。

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