そんなこんなで、先日、暇だったので未だ通ったことの無い道を歩いてみた。

そうすることで、新しい場所が自分の中にどうゆう形で追加されていくのかを確かめてみたかった。

近所で行ったことのない方向というくらいだから、別に楽しいものがあるわけでもなく、ただ数軒、小さな喫茶店が目についた。

ある朗らかな印象のカフェでは連休の最終日を過ごす母親と思しきひとたちが大量にたむろしていたり、小洒落た英国風のカフェでは若いんだか年取ってるんだかわからないカップルがつまらなそうに談笑していた。

もちろんぼくはどっちの店にも入っていない。

まあそんなことはどうでもいいのだけれど。

まず、起点となるのは既知の場所で、そこは大きな公園。公園の先に行くと、あからさまに商業地域とはかけ離れていくので、そっちの方には用はないだろうと思って今までそこから先へ進むことはなかった。事実その先には何もなかった訳だし、ぼくの判断は正しかったことを証明しただけだった。

公園を横目に少しあるくと、学校があった。学校はいかにも「現代建築です」といった佇まいで、ガラス張りの通路が建物同士を繋いでおり、入り口には警備員がいた。ぼくはそういう建物に興味はないので、一瞥しただけで通り過ぎたが、それでもその物理的な大きさと、学校という理解し易い意味を持った場所は、記憶に残り易いものらしい。

それからまたてくてく歩いていくと、道が二つに分かれていた。結局その先でまた一つに交わるのだけれど、ぼくはあえて交通量の少ない道を選んだ。この時点で通らなかった方の道の記憶はひどく漠然としたものになっている。

人通りの少ない道をあえて選んだのは、そちらのほうが面白いものがあるんじゃあなかろうかという微かな期待からだった。

期待したほどではなかったが、それなりに面白いものはあった。「東京なんとか」という店で、「今時東京って...」と思ったが、その、かつてパリやロンドンに憧れた日本人が、その名前を意味も無く使用したのと同じ理由で、きっと「東京」という、僅かな資本を一極集中することで経済的発展を計っていた懐かしい時代の権威というか、文化の象徴としての都市の名を借用した店には興味を惹かれた。

看板も派手で、いったい何の店だろうと近づいて観察してみたが、なんのことはない、どこにでもある店だった。それでもその名前と派手な看板は、記憶に残る物だったらしい。

そういえばその向かいに「透明」という名前の店もあった。こちらは閉まっているのかよくわからなかったが、その名にふさわしく、正に透明だった。

恐らく「東京なんとか」がなければ、全く記憶どころか、ある事にすら気づかずに通り過ぎていたに相違ない。

それからまた 10 分程歩いてみたけれど、もう何もなさそうなので引き返すことにした。

戻りながら道順を反芻してみた。

するとどうやら、道は道として記憶されるというよりも、場所と場所を繋ぐものとして記憶されていくようだった。

いわゆるノードというやつなのか、それは建物だったり、交差点だったりする。小さな場所でも特徴があれば記憶され易いし、大きくても特徴を把握できなければ漠然としたものにしかならない。

ちなみに帰りは「東京なんとか」とは反対側の、たぶんメインの通りを通ってみたが、あまりにも普通というか、どこにでもある道だったので、何も覚えていない。自動販売機があった気がするが、無かった気もする。

ただ、ぼくの記憶と、他の誰かの記憶はきっと違うものになるだろう。ぼくの興味のあるものが誰かの興味のあるものではない以上、ノードもまた別の構造を形成する可能性は多分にある。

それでも、例えば今回で言えば学校というのは象徴的で、かつ大きさもあるので、多くのひとの記憶に残り易いように思う。

また、交差点なども記憶に残り易いものになるんじゃあないだろうか。なぜなら分岐点は覚えておかなければ戻るのが困難になるので、意識的に記憶しようという意思が働く。

もともと記憶には限界があるのだし、それを効率的に利用しようとすれば、自分の興味や、象徴的な意味をもった空間を覚えておいて、あとはその途中としたほうが効率がいいんじゃないかと思う。

そうすると、概念地図もきっとそうやって利用されるんじゃあないだろうか。

概念空間もそうやってできているから、何か特徴的な記憶から別の記憶が喚起されていくようになっている。

だとすると、象徴や分岐点、接合点をどのようにして配置していくのかが、デザインの胆になる気がする。