そんなわけで、空間をデザインするということについて考えてみる。
まず、そもそも空間を空間として認知するということはどういうことなのだろうか。
ぼくらは常に空間に居るのだし、そういった意味で空間を認知するというのは息を吸うことと変わらないように思う。
けれど、どうもそうではないらしい。空間を認知するということは、自分を中心とした外世界の構造を理解し、イマジネーションによる地図を造り出す必要があるみたいだ。
もっと簡単に説明すると、例えば部屋の中にいる時と、街を歩いている時では同じ空間でもまったく違ったイメージ地図をこさえている。しかも同じ部屋にいる時でも、料理をしている時は台所で料理に必要な意味地図を作成し、トイレに行く時は現在地点からトイレまでの距離と道筋の単純な構造によって地図を作成しているらしい。
この場合構造というと不明瞭なので、自分と外世界の距離や大きさ等の関係といったほうがいいのかもしれない。
同じように、街を歩く時も常に街全体のイメージ地図を持ち歩いているわけではないようで、出勤する時には出勤に必要な距離と、その途中に普段からある町並みを基に地図として造り出しているように思う。
空間設計の専門知識はぼくには無いけれど、そうすると、何も全空間を把握し、その細部にいたるまでの設計を行う必要はないようだし、そもそもそれには限界がある。
つまり街は生きているのだから、個人の矮小な設計思想でがんじがらめに造られてしまっては、活気というものを欠いてしまうんじゃないだろうか。
そんなわけで、ひとがその瞬間に認知している空間というのはたかがしれている。もし、東京からワシントンまで泳ぎと徒歩で行くにしても、その途中の全ての地図なんてものは造れない。せいぜい、今日歩ける距離がで精一杯だろう。
Web をやっていると、情報構造だとか、文書構造だとか、プログラムの構造だとか、構造という言葉がいっぱい出てくる。
そもそも、ここでいう構造ってなにか。
プログラムの構造だと、それは論理構造だろう。文書構造にしたって、文書内での階層構造とか、ごくシンプルなレベルでの意味構造のことを言っているのだろう。
ところがどっこい情報構造、こいつは一体全体何の事を言ってるのか。情報の構造。情報っていうのは言ってしまえば宇宙の全てが、ひとを通して知識に還元されるまでは、何もかもが情報じゃあないのかと。
そうすると情報の構造化は宇宙の意味を構造化することになってしまう。
合点。そういうことか、つまり情報の構造化というのは、宇宙の意味を構造化することなのかもしれない。
先ほど、人間がその瞬間に認知している空間はたかが知れている、と書いた。
現実的に考えるのなら、情報の構造化は、ひとがある目的のために必要とする概念地図を設計する事と限定すべきなのかもしれない。
カテゴライズとかラベリングとかは、その情報のスキーマと、その情報の名前をみんなでなんて呼ぶかを決めることで、そのカテゴリは、何を目的にしているのか(料理をするのかトイレに行くのか)によって所属する情報が変わってくる。名前にしても、誰が(職業や年代)呼ぶのかによって変わってくる。なにせ概念も語彙も、ひとそれぞれのものなのだし。トランプのルールだって、みんなが知っていたってぼくは知らないということもある。
こう考えると、事は単純になってくる。ぼくがトイレに行きたいのであれば、そのための概念地図を作成すればいい。ルイーズというフランス人がアニメイトに行きたいのであれば、そのための概念地図を作成すればいい。ひょっとすると宇宙の全ての地図をルイーズ に渡してしまえば、彼女は一生アニメイトに辿り着く事ができないかもしれないし。
とりあえず結論はでた。空間を設計するためには、概念地図を作成する必要がある。だとすると、概念地図というこの分かったようで分からないものを、分かるように考えてみる必要がある。
じゃあ、概念地図とはなにか。