小説家は出版される本の3倍以上の文字を書き、推敲を重ね、そぎ落とし、研ぎすまされた文章を作品として発表するらしい。最近の小説家はどうなのかは知らないけれど、ヘミングウェイとか明治、昭和の小説家とかは、なんかそんな風な書き方をしていたらしい。
ぼくは最近小説を読まなくなって、最後に読んだ小説は村上龍の「半島を出よ」で、3年くらい前になる。
基本的にだらだらした感じの文章が好きで、紙いっぱいに文字がならんでいて、いつまでもはなしが終わらない感じの文体が好きで、最近の作家だと、舞城王太郎とかが好き。最近の作品は読んでないけど。
具体的には明治とかの暗くてドロドロしたはなしが好きだけど、昼ドラはどうにも好きになれない。
Webの文章は散文的で、文章としての美しさはないような気がする。叙情的な文章はむしろオナニーを見せられているようで、気持ちが悪いことすらある。検索を前提としているのだから叙情詩なんて無意味だろうし、だとするとWebはそういった目的の媒体としては成熟できないのかもしれない。
ケータイ小説というのは味気なくて読む気がしないけれど、最近の若い世代というのはむしろ散文を好むらしくて、何かヒットして映画化したりする。はなしとしての灰汁がなくて、なんかキレイにまとまった文章で、ケータイだから横書きで、心情よりも視覚にうったえかける表現が多いようなイメージがある。
かといって最近の純文学が読みたいとも思わなくて、それはやっぱりなんかはなしが抽象的すぎて、好みに合わない。別にぼくは文学のことなんて全くわからないし、ただの好き嫌いだけど、なんかもっと具体的なはなしのほうが読む気になる。
去年、ばあちゃんが死んだ時に、部屋から遺品にと拝借した有吉佐和子の「恍惚の人」がおもしろくて読んでたけど、結局途中までで読み終わってない。
そう考えると別に小説の内容ではなくて、ただたんに小説を読むのがメンドウになっただけっぽい。
デジタル化された情報はやっぱり淡白な気がする。別にビットだからとかいうのではなくて、その目的が実用で、叙情の入り込む余地がないのだと思う。ムリから叙情をネジこむと、なんか変な感じになる。やっぱりひとは触感のあるものが好きで、紙に印字された文字には感情が入り込む余地があると思う。
合理的なアーキテクチャに基づいた情報は、実用的で、大きな利益を産むのだろうけど、情報と知識は違うくて、情報がWebにあるからひとの頭の中には知識はいらないというわけではなくて、知恵は知識から産まれるのだろうから、知らないことを識るということは、知性を磨いていくということだと思う。どんなにネットワークは張り巡らされたところで、人間そのものがネットワークにつながるわけではないし、つながるべきでもないだろうから。あくまで、ネットワークはただの倉庫なのだから、倉庫から必要なものをとりだして、それをどう使うのかという知恵は不可欠になってくる。電卓があるから計算ができなくていいというのは、人間が道具の奴隷になるというのと同じことで、あくまで道具は道具して使うもので使われるものではないという基本的なことがわかってないひとがたくさんいて、なんでもコピペですまそうとするきらいがある。
でもコピペでつくったものに価値なんてまるでない。たとえ不細工でも自分でつくったものには一定の価値が生まれるし、そこから次のステップをつくりだすための反省もできるし、なによりそういうのは合理化とは呼ばない。
楽をすることは素晴らしいことだけど、それは怠けるのとは違う。コンピューターは楽をするための道具で、怠けるための道具とは違うと思う。そもそも人間は識るということに快楽を感じる生き物なのに、識るということを放棄してしまったら、それは損をしているということになると思う。