真面目の定義

真面目の定義をわざわざするなんて、なんて真面目なやつなんだと思うかもしれない。けれどもぼくの定義によれば、なんとこれは真面目なことではないことになる。

さて、では真面目なひととは一般的にどんなひとのことをさすのかをまとめてみよう。

  • 真面目な人は、融通がきかない
  • 真面目な人は、自分の意思よりもルールや、規則を重んじる
  • 真面目な人は、動作がキビキビしている
  • 真面目な人は、計画的だ
  • 真面目な人は、冗談を理解しない
  • 真面目な人は...

というのが一般的なイメージだと思う。

つまり一言でいうと、真面目な人は、多面的なものの見方ができないのだ。

一見不真面目そうで、冗談ばかりいっているひとがいて、この人は不真面目なひとだなんだなと思って、そう対応すると、驚くようなことになる場合がある。

これは真面目な人 = 冗談を理解しないひと というイメージの逆、冗談を言う人 = 不真面目なひと だという短絡的な発想によって起こる大きな誤解に依るものだ。

真面目か不真面目かは、何々でない、とか、何々であるとか、その逆だとかそんな個々の状態や性質の問題ではなく、パラダイムの問題だという認識を持たなければならない。

パラダイムが一方通行のひとは、一見不真面目そうでもやはり真面目なので、一度こうだと思うとそうでないものを受け入れることが非常に難しい。だからルールを与えられると、教えられものをそうだと信じ、融通がきかなくなる。

計画を立てるとして、立てた計画が途中で間違っていることを指摘されたとしても、やはり多面的なものの見方ができないため、なぜ間違っているのかを理解しない。

保守的な時代には真面目なひとが重宝されたが、現代ではフレキシブルなひとのほうが重宝される。正義とは時代や場所で変わる。それどころか同じ時代同じ場所でも、隣の社会とでさえ価値観を共有しえない時代に、真面目なひとは生きづらいとは、成る程、道理で。

フィンテックとはなんじゃろう

まずウィキペディアによると、

フィンテック、Fintech(英: financial technology)とは、「finance」と「technology」を掛け合わせた造語であり、ファイナンス・テクノロジーの略。「ICTを駆使した革新的、あるいは破壊的な金融商品・サービスの潮流」などの意味で使用される。既存の金融機関が持つ総合的な金融サービスのうち、顧客が必要とする一部の機能のみに特化することで、低コストでサービスを受けることが可能となる。

となっている。

上記のように、最初フィンテックのはなしを聞いた時は、ただテクノロジーで金融を効率的にするものだと思っていたのだけれど、それはどうやら違うらしく、経済という概念を変容させ、資本主義のパラダイムを変える可能性のあるものじゃなかろうかと今は思うようになった。

ぼくが思っている金融とは、時間を換金することだった。借りた期間(時間)がお金に換算され、時間に対してお金(利子)を払う。これが金融というか、金融業のモデルであると。

フィンテック以前の金融業には、ある程度の規模の資本が必要だった。ところがこのフィンテックのひとつであるクラウドファンディングというやつは、見知らぬ個人のお金を少額をづつ集める形での金の融通を可能にし、しかも対価は時間の換金ではなく、商品そのものだったり、それどころかよくわからない自尊心や、喜びだといったファジーな感情だったりする。

お金の価値

産業革命以前の商品自体が希少だった時代のお金という概念がどんなものだったのかは分かりようがないのだけれど、例えば戦中の物資不足や、ハイパーインフレ真っ只中の社会を観察すれば、お金というものにこれほど重きをおく現代というのは、実は異常なのかもしれない。

お金があればなんでも買えるというのはある意味では事実だとしても、そもそも買う商品がないか、もしくは商品の価値が低ければ、お金の重要性はおのずと薄れていく。

つまり物質が溢れ、モノの価値の薄れた一部の市民にとってのお金という概念は、それまでのものとはまた別のものになりつつあると考えられる。

UX と Fintech

モノの溢れた社会では、経済の主体はモノから体験へと移行するといわれ、新興の有望企業のほとんどはユーザーエクスペリエンス(UX)を、他社との差別化、アドバンテージのひとつと考え、多額の資金を投入している。

もちろんフィンテック系各社も、 UI UX には重きをおき、旧態依然のイケてない UI UX の巨大企業の商品を一般消費者向けには駆逐し初めているのだけれど、ここで言いたいのはそういうことではなくて、上記のように、フィンテックそのものが UX 産業なのだという。

ファジーな感情を売り物にしたり、夢を応援だとか、そういったよくわからないものにお金を出すのは、商品を買うということではなく、もっと観念的なモノを、まるでそうできるかのようにお金を介して交換する。もちろん実際は交換などできはしないのだけれど、それが交換されたと双方が認識した時点で、モノであれ感情であれ交換は成立するのだから、これはまさに UX 産業だなと思う。

そうして金融が個人間で行われるようになり、無形の観念的なものにお金が支払われるようになっていくことで、徐々に経済という概念も変容していく。そうしていくことで、やがてお金を主軸とした資本主義が、別のものに置き換わるのかもしれない。

見るものと見えるものと見えたものと

"予想外ものを見るためには、何も予想してはならない" 。

見ようと思っているものは、例えそこに無くても見えることがあり、見ようと思わないものは、確かにそこにあるのに見えないことがある。

穴の空いた器を眺め、なぜ器なのに穴が空いているのかと訝しむひとに、それは漏斗だと教えてあげると、あぁこれは容器ではないのだなと思った瞬間、もう二度とそれを器として見ることができなくなってしまう。

昨日まで意味不明だった数式が、僅かな言葉がきっかけで、なぜそれが理解できなかったのか理解に苦しむほど自明なものであると気づく瞬間がある。

見えるものと見ているものは違う。

理解するのは一瞬なのだけれど、そこに辿り着くのには長い年月がかかることも多い。

見ようとしないものは見えないが、何を見ていいのかすらわからないというのが常で、かといってそこで諦めてしまうとそれで止まってしまう。見るべきものをみつけた瞬間、何を見ていなかったのかは見失ってはしまうのだけれど、過去は過去として、もうそこには繋がっていないのだから仕方ない。

高齢社会の物理演算

年代別の人口比の変化を物理演算ライブラリで表現してみた。

2011

少しバイアスをかけた表現をしているのだけれど、こうするともはやオーバーフィフティには、それ以下の年代をぶつけてもビクともしないな。

参考 : 統計表一覧 政府統計の総合窓口

Canvas の scale でアニメーションしてみる

とくに何も考えずにスケールアップしてみると、右下のほうに動いていって驚いた。

イメージとしては対象のオブジェクトだけをスケールしたつもりなのだけれど、実際は ctx.scale(x, y) しているので、canvas 全体がスケールされる。

つまり、オブジェクトの位置もスケールされている。

例えば x = 10 y = 10 の座標を持ったオブジェクトは、1.1倍にスケールされると x = 11 y = 11 の座標に描画される。

こんな風に。

こいつをなんとかオブジェクトの中心を起点にスケールさせたい。

一番簡単な方法は、元の位置からスケールした分を引き算すればいい。

さらに、オブジェクトの中心に座標を移動させるため、オブジェクトの幅と高さの半分を座標から引く。

ひとつひとつ順を追っていけば案外簡単なのだけれど、スキップして考えようとすると、案外ハマる。うーん。

var transformedPoint = { x: mylocation.x - (mylocation.x * myscale.x) - (mysize.w * myscale.x * 0.5), y: mylocation.y - (mylocation.y * myscale.y) - (mysize.h * myscale.y * 0.5) } ctx.transform(myscale.x, 0, 0, myscale.y, transformedPoint.x, transformedPoint.y);

これで無事中心でスケールされるようになった。

孵る

Canvas で translate して transform して rotate してみる

伸縮x :

傾斜y :

傾斜x :

伸縮y :

移動x :

移動y :

回転 :

既成概念を捨てろ

的な事がよく言われる。

けれど、では一体、既成概念を捨てるいうのは具体的にはどういう事なのだろうか?

全く同じものでも違うコンセプト(概念)で捉えればそれは全く別のものになり、違うものでも同じコンセプトで捉えればそれは同じものになる。

例えば椅子を机だと捉えれば、それは椅子ではなく机として使える。

グラスは花瓶にもなるし、レシートを本の栞としても扱える。そうしてそれは逆もまた真となる。

けれどどうだろう? それではまだ"捨てた"とは言い難い。ただコンセプトを置き換えたに過ぎない。ある用途で利用されていたものを、別のよく似たものとして使ったに過ぎない。

つまり、昨日捨てた椅子に今日座ることはできないように、もうそれは無いものでければならない。

全く未知のものとして椅子と向き合うのなら、それを椅子と呼ぶこともできないはずだ。それは足のついた何かで、ひょっとすると生き物かもしれないと思うほど無知になれば、椅子(と過去に呼ばれていたそれ)は、恐怖の対象ですらあるはずだ。

四方八方から眺めてみる。噛みつかないのなら持ち上げて裏返しにしてみてもいいかもしれない。害がなければ舐めてみると何か分かるかもしれない。

もしもそれを行儀が悪い、躾がなっていない。そう思うのならそれはまだ既成概念に縛られ、保守的な価値観に埋もれているからで、一体全く未知のものが、食べられないなど、誰に分かるというのか。

何も分からないのなら、全てが発見になる。椅子が硬い(もしくは柔らかい)ことも、持ち上げられるほどに軽いことも、そして座ることができるという事実すら、驚きと感動になるかもしれない。一周回って座るものとして使ったとしても、誰かに教わってそれに座るのと、自分で発見して座るのでは、それはまた全く別のコンセプトではないか。

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