フィンテックとはなんじゃろう

まずウィキペディアによると、

フィンテック、Fintech(英: financial technology)とは、「finance」と「technology」を掛け合わせた造語であり、ファイナンス・テクノロジーの略。「ICTを駆使した革新的、あるいは破壊的な金融商品・サービスの潮流」などの意味で使用される。既存の金融機関が持つ総合的な金融サービスのうち、顧客が必要とする一部の機能のみに特化することで、低コストでサービスを受けることが可能となる。

となっている。

上記のように、最初フィンテックのはなしを聞いた時は、ただテクノロジーで金融を効率的にするものだと思っていたのだけれど、それはどうやら違うらしく、経済という概念を変容させ、資本主義のパラダイムを変える可能性のあるものじゃなかろうかと今は思うようになった。

ぼくが思っている金融とは、時間を換金することだった。借りた期間(時間)がお金に換算され、時間に対してお金(利子)を払う。これが金融というか、金融業のモデルであると。

フィンテック以前の金融業には、ある程度の規模の資本が必要だった。ところがこのフィンテックのひとつであるクラウドファンディングというやつは、見知らぬ個人のお金を少額をづつ集める形での金の融通を可能にし、しかも対価は時間の換金ではなく、商品そのものだったり、それどころかよくわからない自尊心や、喜びだといったファジーな感情だったりする。

お金の価値

産業革命以前の商品自体が希少だった時代のお金という概念がどんなものだったのかは分かりようがないのだけれど、例えば戦中の物資不足や、ハイパーインフレ真っ只中の社会を観察すれば、お金というものにこれほど重きをおく現代というのは、実は異常なのかもしれない。

お金があればなんでも買えるというのはある意味では事実だとしても、そもそも買う商品がないか、もしくは商品の価値が低ければ、お金の重要性はおのずと薄れていく。

つまり物質が溢れ、モノの価値の薄れた一部の市民にとってのお金という概念は、それまでのものとはまた別のものになりつつあると考えられる。

UX と Fintech

モノの溢れた社会では、経済の主体はモノから体験へと移行するといわれ、新興の有望企業のほとんどはユーザーエクスペリエンス(UX)を、他社との差別化、アドバンテージのひとつと考え、多額の資金を投入している。

もちろんフィンテック系各社も、 UI UX には重きをおき、旧態依然のイケてない UI UX の巨大企業の商品を一般消費者向けには駆逐し初めているのだけれど、ここで言いたいのはそういうことではなくて、上記のように、フィンテックそのものが UX 産業なのだという。

ファジーな感情を売り物にしたり、夢を応援だとか、そういったよくわからないものにお金を出すのは、商品を買うということではなく、もっと観念的なモノを、まるでそうできるかのようにお金を介して交換する。もちろん実際は交換などできはしないのだけれど、それが交換されたと双方が認識した時点で、モノであれ感情であれ交換は成立するのだから、これはまさに UX 産業だなと思う。

そうして金融が個人間で行われるようになり、無形の観念的なものにお金が支払われるようになっていくことで、徐々に経済という概念も変容していく。そうしていくことで、やがてお金を主軸とした資本主義が、別のものに置き換わるのかもしれない。

見るものと見えるものと見えたものと

"予想外ものを見るためには、何も予想してはならない" 。

見ようと思っているものは、例えそこに無くても見えることがあり、見ようと思わないものは、確かにそこにあるのに見えないことがある。

穴の空いた器を眺め、なぜ器なのに穴が空いているのかと訝しむひとに、それは漏斗だと教えてあげると、あぁこれは容器ではないのだなと思った瞬間、もう二度とそれを器として見ることができなくなってしまう。

昨日まで意味不明だった数式が、僅かな言葉がきっかけで、なぜそれが理解できなかったのか理解に苦しむほど自明なものであると気づく瞬間がある。

見えるものと見ているものは違う。

理解するのは一瞬なのだけれど、そこに辿り着くのには長い年月がかかることも多い。

見ようとしないものは見えないが、何を見ていいのかすらわからないというのが常で、かといってそこで諦めてしまうとそれで止まってしまう。見るべきものをみつけた瞬間、何を見ていなかったのかは見失ってはしまうのだけれど、過去は過去として、もうそこには繋がっていないのだから仕方ない。

高齢社会の物理演算

年代別の人口比の変化を物理演算ライブラリで表現してみた。

2011

少しバイアスをかけた表現をしているのだけれど、こうするともはやオーバーフィフティには、それ以下の年代をぶつけてもビクともしないな。

参考 : 統計表一覧 政府統計の総合窓口

Canvas の scale でアニメーションしてみる

とくに何も考えずにスケールアップしてみると、右下のほうに動いていって驚いた。

イメージとしては対象のオブジェクトだけをスケールしたつもりなのだけれど、実際は ctx.scale(x, y) しているので、canvas 全体がスケールされる。

つまり、オブジェクトの位置もスケールされている。

例えば x = 10 y = 10 の座標を持ったオブジェクトは、1.1倍にスケールされると x = 11 y = 11 の座標に描画される。

こんな風に。

こいつをなんとかオブジェクトの中心を起点にスケールさせたい。

一番簡単な方法は、元の位置からスケールした分を引き算すればいい。

さらに、オブジェクトの中心に座標を移動させるため、オブジェクトの幅と高さの半分を座標から引く。

ひとつひとつ順を追っていけば案外簡単なのだけれど、スキップして考えようとすると、案外ハマる。うーん。

var transformedPoint = { x: mylocation.x - (mylocation.x * myscale.x) - (mysize.w * myscale.x * 0.5), y: mylocation.y - (mylocation.y * myscale.y) - (mysize.h * myscale.y * 0.5) } ctx.transform(myscale.x, 0, 0, myscale.y, transformedPoint.x, transformedPoint.y);

これで無事中心でスケールされるようになった。

孵る

Canvas で translate して transform して rotate してみる

伸縮x :

傾斜y :

傾斜x :

伸縮y :

移動x :

移動y :

回転 :

既成概念を捨てろ

的な事がよく言われる。

けれど、では一体、既成概念を捨てるいうのは具体的にはどういう事なのだろうか?

全く同じものでも違うコンセプト(概念)で捉えればそれは全く別のものになり、違うものでも同じコンセプトで捉えればそれは同じものになる。

例えば椅子を机だと捉えれば、それは椅子ではなく机として使える。

グラスは花瓶にもなるし、レシートを本の栞としても扱える。そうしてそれは逆もまた真となる。

けれどどうだろう? それではまだ"捨てた"とは言い難い。ただコンセプトを置き換えたに過ぎない。ある用途で利用されていたものを、別のよく似たものとして使ったに過ぎない。

つまり、昨日捨てた椅子に今日座ることはできないように、もうそれは無いものでければならない。

全く未知のものとして椅子と向き合うのなら、それを椅子と呼ぶこともできないはずだ。それは足のついた何かで、ひょっとすると生き物かもしれないと思うほど無知になれば、椅子(と過去に呼ばれていたそれ)は、恐怖の対象ですらあるはずだ。

四方八方から眺めてみる。噛みつかないのなら持ち上げて裏返しにしてみてもいいかもしれない。害がなければ舐めてみると何か分かるかもしれない。

もしもそれを行儀が悪い、躾がなっていない。そう思うのならそれはまだ既成概念に縛られ、保守的な価値観に埋もれているからで、一体全く未知のものが、食べられないなど、誰に分かるというのか。

何も分からないのなら、全てが発見になる。椅子が硬い(もしくは柔らかい)ことも、持ち上げられるほどに軽いことも、そして座ることができるという事実すら、驚きと感動になるかもしれない。一周回って座るものとして使ったとしても、誰かに教わってそれに座るのと、自分で発見して座るのでは、それはまた全く別のコンセプトではないか。

?

プリミティブな感覚

ひとには視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感がある。

ひとは産まれた時からひとで、死ぬまでひとだから、まさか他の生き物が自分たちとは全く違う世界に生きてるなんてあまり考えない。

だからいろんな生き物を擬人化し、まるでひとのように扱うのだけれど、言葉をもたないひと以外の生き物が、果たして内省することが可能なのだろうか?

言葉がないとしたら、概念はどのように抽象化されるのだろうか?

目も耳も鼻も口もない生き物は、世界の構造をどのように捉え、何を手掛かりに行動するのだろうか?

高等動物のように感覚の発達していない生き物は、もっとシンプルで純粋な世界観で生きているのか、あるいは、空間や他者という概念すらないまま、唯、刺激に反応しているだけなのだろうか?

プリミティブな感覚、生き物が初めて世界と繋がったときの、はじまりの感覚はなんだったのだろう? ひょっとすると、そのはじまりの感覚は、光も音も無い世界で、何か捉えることができるものなのかもしれない。

光、音、熱、化学反応、圧力、それらに対する五感は、プリミティブな感覚からはじまり、進化の過程でそれぞれの刺激に特化し、分化していったがために、あるいは、それ以前の純粋な刺激(?)というものを受容する機能が鈍化しているのかもしれない。

シンプルな入力、シンプルな出力。生命の誕生というは、きっと世界と繋がったこというそれ自体の事じゃないだろうか。

では、なぜ、最初の生き物は世界と繋がる必要があったのだろう? 敵もなく、それ以前に己すらない世界で。

ひょっとすると、ぼくらが生きるための手掛かりだと思っている感覚というのは、ほんとうは全く別の目的からはじまったのかもしれない。